築城名人とは
城を知るにおいて度々みかける築城名人という言葉ですが、どういったことを指す言葉なのかイマイチ理解していない人も多いのではないでしょうか。
有名な武将というのはどこかしらの城の主になっています。
例えば、織田信長と言えば安土城。
豊臣秀吉といえば大阪城というように、有名な武将には有名なお城がリンクしています。
しかし実際に織田信長が工具を握って城を建てたというわけではありません。
織田信長が城を作ることを決めて、実際に人に城を作ってもらうことを依頼することになります。
多くの人に依頼をされて実際にたくさんの城を作った功績が残っている人のことを築城名人と呼んでいます。
では実際に築城名人と呼ばれていた人たちを見ていきましょう。
篭城が強みの加藤清正
加藤清正は豊臣秀吉の遠縁にあたる武将です。
刀鍛冶師の父親を持ち、加藤清正自身秀吉が朝鮮出兵した時にも活躍を見せるなど武将としても実力を持っていた人物です。
加藤清正は、反りが大きく高さのある武者返しとう石垣が特徴的で、敵の侵入を防ぐ力が高くありました。
また、篭城戦を意識した城づくりをすることにも長けていました。
朝鮮出兵の際には、非常に難しい戦況になり最終的に朝鮮出兵自体は失敗に終わりました。
そういった朝鮮出兵の際に清正が体験した失敗を城づくりに生かしているからこそ、籠城戦を強く意識し攻めと守りの両方を両立させた城づくりを行いました。
城下意識の藤堂高虎
藤堂高虎は、浅井長政や豊臣秀吉など有名な戦国武将の家臣として活躍した人物です。
朝鮮出兵にも参加したほか、関ヶ原の戦いには徳川にて参戦しその功績から20万石を与えられるなど戦での功績も残しています。
築城回数は35回と非常に多く、築城においてかなりのプロでした。
そんな藤堂高虎が意識したのが、城下の発展を意識した城づくりです。
藤堂高虎が築城を盛んにおこなっていたのが、戦が落ち着いてきた時代です。
戦に関してを重視するよりも、城下の発展が盛んになる時代が訪れると見越したため設計も利便性を重視した造りになっているという特徴がありました。
効率重視の黒田官兵衛
黒田官兵衛といえば、軍師としてもかなりの実力があった人物です。
しかし築城の実力もあり、黒田官兵衛が築城で重視していたのが拠点をいかに効率良く築くかという点です。
知将である黒田官兵衛は築城においてもその頭の良さを生かし城づくりをしていました。
敵の進入を防ぐべく、橋の数を最小限にしたり、天守台の勝手口を狭いものにしたりなど特徴的な工夫がみられます。
こういった黒田官兵衛の知略が活かされているのはもちろんなのですが、デザイン性にも優れていたというのが黒田官兵衛の大きな特徴です。